Tourism around
北門屋敷周辺を歩く
北門屋敷の周辺には多くの歴史文化財が残っております。
チェックイン後の周辺散策に旧地図の見比べながら、散策をお楽しみください。
北門周辺マップ
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世界遺産候補・萩城下町
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萩の産業遺産群の構成要素として選定されている「萩城下町」は、萩城・旧上級武家地・旧町人町の3区域から成り、幕末に産業化を目指した萩藩の地域社会を今に伝えています。
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重要伝統的建造物群保存地区<堀内>
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城下町萩は毛利輝元が慶長13年(1608)に指月山に城を築き、町割を行ったことに始まります。萩城三の丸にあたるこの地区には藩の諸役所(御蔵元・御木屋・諸郡御用屋敷・御膳夫所・御徒士所)と、毛利一門をはじめとする大身の侍屋敷が建ち並んでいました。近世城下町の侍屋敷としての地割をよく残し、土塀越しにみえる夏蜜柑とともに歴史的景観を形成している点に高い価値が認められています。
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土塀と夏みかん
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萩の夏みかんの集団栽培は、明治維新後、失業武士の救済事業として明治9年頃から始まりました。武家屋敷の土塀からのぞく夏みかんの黄色い実は、今も萩の代表的な風景のひとつとなっており、初夏には町中が夏みかんの花の香りに包まれます。
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萩城跡
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萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから別名指月城とも呼ばれ、本丸、二の丸、三の丸、詰丸からなっていました。明治7年(1874)、天守閣、矢倉などの建物は全て解体され、現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめ、一帯は国の史跡に指定されています。園内には天守閣跡、花江茶亭、梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋、東園などの旧跡があり、春には県の天然記念物に指定されている白い桜・ミドリヨシノを始め、600本あまりのソメイヨシノが咲き誇ります。
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平安橋
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城内と城下を往来するための3つの総門のうちのひとつ「平安古(ひやこ)総門」の外に懸けられた石橋。以前は北の総門、中の総門にも橋があったが、現存するのはここだけ。橋脚のない、ゲルバー桁橋という構造の珍しい橋です。
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旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
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●萩城跡・指月公園入口バス停より徒歩1分
厚狭毛利家は毛利元就の5男元秋を始祖とする毛利氏一門で、萩屋敷は約15,500m2の広大な敷地を誇っていたが、主屋などは明治維新後に解体され、安政3年(1856)に建てられたこの長屋のみが残りました。本瓦葺き入母屋造りで、現存する萩の武家屋敷の中では最も大きく、国の重要文化財に指定されています。昭和43年(1968)に解体修理が完成し、内部に当時の調度品などが展示してあります。
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清水清太郎親知旧宅地
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清水氏は天正10年(1582)羽柴秀吉の水攻めにより和議の条件として切腹した備中高松城の城主・清水宗治の後裔で、代々毛利氏に使えた重臣です。幕末の当主・清太郎は22歳で家老に抜擢されますが、禁門の変で責を負って切腹しました。このため、清水氏は「戦国の宗治」「幕末の清太郎」と二度にわたって主家を救ったと言われています。
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萩八景遊覧船乗り場
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12人乗りの小舟で水上観光が楽しめる萩八景遊覧船。萩城跡入口の指月橋をスタートし、堀内伝統的建造物群保存地区、白壁と川沿いの松並木などを眺めながらの遊覧は、陸上とはまた違った風情があります。桜の季節の【桜観賞コース】も人気です。
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天樹院墓所
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萩藩祖・毛利輝元の墓所。慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦に敗れ萩へ移った輝元は、ここにあった「四本松邸」を隠居所としました。輝元の死後、菩提所として輝元の法号から
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旧福原家萩屋敷門
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萩藩永代家老・福原家(11,314石余)の萩上屋敷の表門。福原家の領地は宇部ですが、当主は代々毛利家の重臣として萩に住みました。建立は江戸中期と推定され、萩に現存する武家屋敷の門の中では珍しい、門番所のない形式です。
幕末の当主・福原越後は、元治元年(1864)の禁門の変の敗戦後、長州藩が幕府への恭順を示すため、責を負って切腹させられた三家老の一人です。
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問田益田氏旧宅土塀
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●天樹院入口・萩夏みかん工房前バス停より徒歩5分
永代家老益田家の分家筋にあたる問田益田氏旧宅の土塀。旧三の丸に位置し、高い土塀を巡らした重臣たちの屋敷が建ち並んでいた所で、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されており、今でも土塀が数多く残っています。特に、この土塀は231.7mと長く、往時の姿を最もよくとどめています。
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萩学校教員室
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明治3年(1870)に萩明倫館を改組して創られた萩中学校の教員室として建てられ、現在はその流れをくむ萩高等学校の敷地内に移築復元されています。山口県下に残る明治洋風学校建築の代表的なものです。
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口羽家住宅
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口羽家は毛利氏の庶流で、もとは石見国巴智郡口羽村を領した要路城主でしたが、関ヶ原の戦いのあと毛利氏に従って萩に移り、萩藩寄組1,018石余として代々萩城三の丸に住みました。
口羽家住宅は主屋と表門が揃って残る貴重なもので、表門は江戸藩邸の門を拝領して萩に移築したと伝えられています。また、主屋の座敷からは庭越しに橋本川の流れを眺めることができます。
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鍵曲(かいまがり)
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高い土塀で囲み道を鍵手形(クランク状)に曲げることで、行き止まりに見せかけたり見通しをきかなくした通り。城下に侵入した敵を迷わせ追い詰めるために作られたもので、別名「追い廻し筋」とも呼ばれます。
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旧明倫館跡
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明倫館は萩藩5代藩主・毛利吉元によって享保4年(1719)に創建された藩校。江戸末期には270余を数えた藩校のうち12番目にできたもので、毛利氏の学問を重視する家柄がうかがえます。
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御成道
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萩城三の丸は藩内でも最上級の武士の居住地で、城下の侍屋敷と比べてもその屋敷地の広さが際立っています。中でも藩主の通るお城から中の総門までの御成道・本町沿いには毛利一門や家老などの重臣の屋敷が建ち並び、当時の道幅は現在の約2倍もありました。
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木戸孝允旧宅
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木戸孝允は天保4年(1833)藩医・和田昌景の長男として生まれ8歳で藩士・桂家の養子となりますが、養父母が早くに亡くなったため江戸に出るまでの約20年間をこの実家で過ごしました。17歳のとき明倫館で松陰に学び、20歳で江戸に遊学、30歳の頃から藩の要職につく一方、京都に赴いて国事に奔走しました。慶応2年(1966)、薩摩藩の西郷隆盛らと薩長連合を結び、明治新政府では五箇条の誓文の確定に参画し、版籍奉還、廃藩置県の実現に尽力。これらの功績により「維新の三傑」と呼ばれます。
誕生の部屋や庭園などよく旧態を残しており、幼少時代の書の展示なども見ることができます。
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菊屋家住宅
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●萩城城下町バス停より徒歩5分
萩藩で御用達を勤めた豪商菊屋家の住宅で、その屋敷は幕府巡見使の宿として本陣にあてられました。屋敷地には数多くの蔵や付属屋が建てられているが、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場の5棟が国の重要文化財に指定されています。この住宅は、主屋が極めて古く、全国的にみても最古に属する大型の町屋としてその価値は極めて高いものです。菊屋家に伝わる500点余りの美術品、民具、古書籍等が常設展示されており、往時の御用商人の暮らしぶりが偲ばれます。
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萩美術館・浦上記念館
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萩出身の実業家・浦上敏朗氏のコレクションをもとに、平成8年に開館した浮世絵版画と東洋陶磁器を専門とする美術館。浮世絵約5,200点、東洋陶磁約500点、陶芸約750点(平成23年現在)を所蔵し、平成21年に発行された旅行ガイドブック「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」では2つ星の観光施設として掲載されました。歌川広重、葛飾北斎、歌川国芳らの浮世絵約5,200点ほか、中国・朝鮮の陶磁器や近現代の陶芸作品を収蔵展示しています。また、平成22年には「陶芸館」がオープンし、萩焼などの陶芸作品を展示するほか、江戸時代から現代に至る萩焼の歴史を資料や映像で紹介しています。
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旧益田家物見矢倉(旧益田家老長屋)
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●益田家家老旧宅入口バス停より徒歩1分
萩藩永代家老益田家(12,063石余)の屋敷跡にあり、高さ1.8mの石塁の上に建ち、北の総門近くにあって物見(見張り)を兼ねていたため物見矢倉と呼ばれました。益田氏はもともと益田七尾城主でしたが、関ヶ原の戦いの後、徳川からの誘いを断り、報恩のある毛利氏について萩藩へ移住しました。これに感激した毛利輝元は益田家を毛利一門とし、萩藩永代家老をもって処遇しました。幕末の当主・益田親施は禁門の変の責を負って切腹した三家老の一人です。
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萩城外堀
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萩城は本丸、二の丸、三の丸によって形成され、それぞれ内堀、中堀、外堀で防備されていました。外堀は城内と城下を隔てる堀で、当時は通行できる場所は3カ所しかなく、それぞれに門が設けられ厳重な警備がなされていました。
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北の総門
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藩政時代に城下から城内・三の丸に入るために設けられた3つの門のひとつで、このほかに「中の総門」「平安古の総門」がありました。かつては門番が常駐して人の出入りを監視し、暮れ六つから明け六つまでは門が閉じられ、鑑札を持ったもの以外の通行を禁止していました。
日本最大級の高麗門で、現在の門は平成16年に萩開府400年を記念して復元されたものです。
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旧萩博物館
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●萩城外堀入口バス停より徒歩1分
近世都市遺産の町並みや市内に数多くある文化財、史跡などを結びつける「まちじゅう博物館」の中核施設として2004年11月に開館。収蔵資料7万点の保存・展示、高杉晋作の遺品を公開します。
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旧児玉家長屋門
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児玉家は萩藩寄組(2,243石余)で、屋敷は外堀にかかる「平安古の総門」に隣接していました。なまこ壁や出格子など、旧態をよく保っています。
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旧繁澤家長屋門
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繁澤家(1,914石余)は阿川毛利家(7,300石)の分家で萩藩寄組に属していました。藩政初期の当主・繁澤就充は藩の要職として活躍しました。
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旧周布家長屋門
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周布家は萩藩大組士筆頭で、石見国周布郷の地頭職として周布村に居住していたことから周布を名乗りました。北の総門通りにある長屋門は江戸時代中期の代表的な武家屋敷長屋の様式です。
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国司信濃旧宅
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幕末の萩藩家老・国司信濃の屋敷跡。禁門の変のあと、福原越後、益田親施らと責任を負って切腹した三家老のひとりです。
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村田清風別宅跡
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村田清風は9代藩主・毛利斉房の小姓役を命じられ、以降13代・敬親まで5代の藩主に仕え藩政の中枢に参画しました。特に「天保の改革」で四白政策(米・蝋・塩・紙)で手腕を発揮するなど、明治維新に長州藩が活躍する財政的基盤を築いた人物です。
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萩城城下町
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昭和42年(1967)に国史跡に指定された地区で、高杉晋作誕生地、木戸孝允旧宅、御用商人菊屋家など、武家屋敷や町屋などを含む町並みが非常によく残っていることから散策のスポットとして人気があります。
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旧久保田家住宅
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久保田家は初代庄七が江戸時代後期に近江から萩に移って呉服商を開き、2代目の庄次郎から酒造業に転じたと伝えられています。明治時代には来萩した名刺の宿所としてもしばしば利用されました。現在はボランティアガイドが常駐し、施設は様々なイベントの拠点としても使用されています。
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青木周弼旧宅
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青木周弼は享和3年(1803)、周防大島の医者の家に生まれ、江戸で蘭学を学び長崎で開業。その評判を聞きつけた藩主・毛利敬親の侍医となり、藩の医学館長を兼任しました。早くから種痘法の効果に注目し、弟の研蔵を長崎に遣わして研究させ、当時不治の病といわれた天然痘の予防に大いに功を奏しました。研蔵は後に明治天皇のご典医になっています。また研蔵の養子である周蔵は明治中期の外務大臣を務め、条約の改正に尽力しました
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円政寺
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●萩城城下町バス停より徒歩3分
真言宗月輪山円政寺は大内氏代々の祈願寺として建立されたもので、毛利氏の萩築城の折に萩に移築されました。入口には神仏混淆を示す鳥居があり、境内の金比羅社には幼少の高杉晋作が度胸試しをした大天狗の面が掲げられています。伊藤博文も11歳のときこの寺に預けられて雑用の傍ら読み書きを習いました。今でもその頃使用した煉瓦の硯や背負子などが残されています。
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小田村伊之助旧宅跡
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小田村伊之助は藩医松島家に生まれ、12歳で儒者小田村家の養子となりました。江戸藩邸勤めの際、遊学中の吉田松陰と意気投合、帰京後松陰の妹・寿と結婚しました。松陰の投獄後に松下村塾を託される一方、藩主側近にゃ渉外担当としても活躍、坂本龍馬らとともに薩長同盟の足がかりをつくりました。明治維新後は群馬県初代県令として産業や教育の振興に尽力。寿が亡くなった後、その妹・文と再婚。後に男爵となり、明治天皇の皇女の御養育主任などを歴任しました。
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菊ヶ浜
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北長門海岸国定公園内に位置し、萩城跡から浜崎商港まで延々と続く白砂青松の美しい海岸で水質も良好です。砂浜からは、国指定史跡萩城跡を望むこともでができます。また沖合いには笠山や、大島・相島など多くの島々を眺めることができ、日本の夕陽百選にも選ばれるほどのすばらしい景観を誇っています。
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萩キリシタン殉教者記念公園
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●ミドリヤファーム入口・メディカルポート萩入口バス停より徒歩4分
萩城の石垣築造に際して、五郎太石(石垣の間に詰める石)が盗まれるという紛争が益田元祥と熊谷元直、天野元信の間で始まり、石垣築造工事が2ヵ月以上も遅延し、毛利輝元は非は熊谷、天野両氏にありとして、一族11人を打ち滅ぼしました。
五郎太石事件といい、この事件は熊谷、天野両氏がキリシタン信者であったため、この事件を口実に誅伐されたものといわれています。宣教師ビリオンによって建てられた熊谷、天野らの殉教碑と、明治初年に萩へお預けになった長崎浦上村のキリシタン信徒が眠る墓が並び、当時の悲惨な状況を今に伝えています。
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久坂玄瑞旧宅跡
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●久坂玄瑞誕生地前バス停より徒歩1分
高杉晋作とともに「松下村塾の双璧」と称された幕末の志士・久坂玄瑞の旧宅跡。玄瑞は藩医・久坂家に生まれますが若くして家族を亡くし15歳で当主となります。吉田松陰から「防長年少第一流」と高く評価され、松陰の妹・文と結婚。人望厚く、松陰亡き後は尊攘派のリーダーとして活躍しますが、禁門の変で負傷し25歳の若さで自刃しました。
旧宅跡には、長州に亡命した尊王攘夷派の公家・三条実美が読んだ追悼の和歌を刻んだ石碑が建てられています。
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旧萩藩校明倫館跡(萩・明倫センター)
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享保3年・堀内に創建された藩校明倫館は、嘉永2年(1849)に城下の中心地である現在地約1万5千坪に移転・拡張されました。
学問習得のための施設の他、武芸修練場や練兵場が設けられ、幕末には1000名以上もの生徒が学んだといいます。
敷地内には剣術・槍術場である有備館、由来を記した明倫館碑、日本最古のプール・水練池などが残っています。
敷地の大部分は平成26年(2014)3月まで萩市立明倫小学校として使用され、昭和10年(1935)年建築の校舎は登録文化財となっています。平成27年からは交通や観光の拠点として整備・使用されています。
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高杉晋作誕生地
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●萩城城下町バス停より徒歩7分
幕末の風雲児・高杉晋作は、天保10年(1839)に毛利家に代々仕えた藩士高杉家の長男として生まれ、7歳から藩校明倫館へ、19歳で松下村塾に入塾し松陰の影響を強く受けました。文久3年(1863)には身分に因らない画期的な軍「奇兵隊」を結成。禁門の変後の長州征伐が迫るなかで藩内に台頭していた佐幕派を排斥し藩論を倒幕へ統一しました。第二次長州征伐でも海軍総督として幕府艦隊を退けるなど活躍し、長州藩を勝利へ導きましたが、慶応3年(1867)、維新を目前に結核のため27歳の生涯を閉じました。
現在生家は個人所有となっていますが、縁側や玄関先から写真や書などの展示を見学することができます。
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